生物としてのヒトは、長い進化の過程で、他者と通じ合う心を獲得し、その人間らしい心を豊かに発展させてきました。人間は、社会的動物です。言語、思考、文化など、深く心的結合をしているという点で、他の生物とは根本的に異なります。
死は、こうした結合の断裂をもたらします。断裂が苦痛なのは、結合があるからです。その意味で、死の悲しみは、ヒトが人間になったことの、必然的結果であり、代償といえます。それを避ける方法はないでしょう。その意味で、私が、冒頭に申し上げた通り、死の悲しみは、生物としての個体保存とは関係がない、なのに、人間に多大な苦悩をもたらすという意味で、本当はない方がいい、欠陥のある感情なのでしょうか。
愛する人を失う悲しみは、愛する喜びと裏腹です。自分がこの世とおさらばする悲しみは、人生の素晴らしさと裏腹です。どちらか一方だけを切り離すことはできません。セットなのです。それは、次の例えからも明らかだと思います。
仮に医薬の発達により、悲しみを忘れさせる妙薬が発明されたとします。人は、最愛の人を失った時、その悲しみを忘れるために、その薬を飲むでしょうか。もし、その薬が悲しみから解放されたとすると、その時、その人は、最愛の人に対する愛をも忘れたことになるのではないでしょうか。だから、そんな薬は飲まないでしょう。
死の悲しみは、人生の素晴らしさとセットである。
死は、生のすばらしさを思い出させてくれるもの、つまりリマインダー(reminder)なのではないでしょうか。死があるからこそ、生が輝くのではないでしょうか。
2019年9月7日土曜日
2019年9月6日金曜日
死の悲しみ
人間特有の死の恐れについて、色々話してきました。話が多岐にわたっているので、中間的整理をすると、まず、死の疎外感とそれに対置する思考として、幸福追求の権利を話しました。次に死の不条理感、これに対置する思考として、魂は、肉体の僕であり、魂は不滅ではない、という考えを話しました。
次に死の悲しみについて、話します。身内や愛する人を失う悲しみは、激しいもので、これも、人間特有でしょう。当事者である本人は、そういった悲しみの中心点に位置するわけですから、大きい悲しみは避けられないでしょう。
前にも話したように、下等動物でも、原初的心を持っているのであり、その意味で、快、不快、や原初的喜びがあるでしょうし、次第に高等になるにつれ、それらは、深くなるでしょう。特に犬や象など群れを成す動物は、豊かな感情を持つでしょう。しかし、人間の感情は、それらとは、比較にならないくらい大きいものです。それは、ヒトが人間になる過程で、他者と通じ合う心を獲得するからです。人間は、肉体こそ別々ですが、心は、つながっているのです。仲がいいとか悪いとかに関係なく、人間は、同一言語、同一思考様式、同一文化、を共有しています。その結合の度合いは、身近な人同士であればあるほど、大きいでしょう。それが、死によって引き裂かれるとき、血こそ流れませんが、目に見えない血が流れるような、苦痛を伴うのは、進化の過程で、人間が、通じ合う心を獲得した、必然の結果でといえます。私たちは、死の悲しみを少しでも減らすためにできることはあるでしょうか。
次に死の悲しみについて、話します。身内や愛する人を失う悲しみは、激しいもので、これも、人間特有でしょう。当事者である本人は、そういった悲しみの中心点に位置するわけですから、大きい悲しみは避けられないでしょう。
前にも話したように、下等動物でも、原初的心を持っているのであり、その意味で、快、不快、や原初的喜びがあるでしょうし、次第に高等になるにつれ、それらは、深くなるでしょう。特に犬や象など群れを成す動物は、豊かな感情を持つでしょう。しかし、人間の感情は、それらとは、比較にならないくらい大きいものです。それは、ヒトが人間になる過程で、他者と通じ合う心を獲得するからです。人間は、肉体こそ別々ですが、心は、つながっているのです。仲がいいとか悪いとかに関係なく、人間は、同一言語、同一思考様式、同一文化、を共有しています。その結合の度合いは、身近な人同士であればあるほど、大きいでしょう。それが、死によって引き裂かれるとき、血こそ流れませんが、目に見えない血が流れるような、苦痛を伴うのは、進化の過程で、人間が、通じ合う心を獲得した、必然の結果でといえます。私たちは、死の悲しみを少しでも減らすためにできることはあるでしょうか。
2019年9月5日木曜日
魂不滅の否定
私たちは、自分の身体を、自分の僕(しもべ)だと思っています。だから、体を酷使する、などと言います。事実、脳の思い通りに体は動きます。自分の生命維持のための活動を、体を用いて行っている、と思っています。しかし、私は、それは逆であり、実際は、脳は身体の僕であると思います。身体に関するこうした考えは、私の情報や生物に関する考えに基づくものです。このことは、すでに述べました。
また、心については、主体性や情報獲得という観点から、脳とは切り離した、身体全体に基礎を置くべきであるという考えも申し上げました。だから、大雑把に命令系統を図式化すると、次のようになります。左が上位で、右が下位です。
肉体⇒心⇒脳(思考)
この図式より、次の重要な結論が生まれます。
肉体の消滅と共に、心は消滅する。(魂の不滅の否定)
また、心については、主体性や情報獲得という観点から、脳とは切り離した、身体全体に基礎を置くべきであるという考えも申し上げました。だから、大雑把に命令系統を図式化すると、次のようになります。左が上位で、右が下位です。
肉体⇒心⇒脳(思考)
この図式より、次の重要な結論が生まれます。
肉体の消滅と共に、心は消滅する。(魂の不滅の否定)
2019年9月4日水曜日
脳と心その2
脳という高度に知的な器官を重視するなら、ミミズなどの「下等動物」に、心があるなどというのはナンセンスかもしれません。しかし、進化の過程を見ると、脳は、進化と共に、大きくなり、ヒトでは、特に大きくなりました。体や活動の司令塔として、心は、単細胞から連続的に、発達してきたという連続性を、無視するなら、いつどこで、心が生まれたのか、生物のどの段階以上なら心を持つのか、といった疑問が生まれます。そして、それらの答えはみつかりそうにありません。
逆に、脳は、体の僕(しもべ)にすぎないとすると、すべてうまくゆくのではないか、と思います。最新の様々な知見によっても、細胞や器官は、メッセージ物質を放出して、お互い頻繁に情報のやり取りをしている、それによって、体という複雑なシステムは維持されている、ということがわかってきております。
人間は、無意識のうちに様々な人間中心主義をもっています。神は自分の姿に似せて人を作った、地球は宇宙の中心である、等々。人間だけが心を持っている、というのも、人間中心主義ではないでしょうか。確かに、高度な知性は、大きい脳を持つ人間だけのものですが、それと、心を結び付けると、人間だけが心を持つということになってしまいます。アンデルセンの人魚姫では、人魚は人間と違い、心を持たないことになっていますが、これも、キリスト教の影響なのでしょう。
逆に、脳は、体の僕(しもべ)にすぎないとすると、すべてうまくゆくのではないか、と思います。最新の様々な知見によっても、細胞や器官は、メッセージ物質を放出して、お互い頻繁に情報のやり取りをしている、それによって、体という複雑なシステムは維持されている、ということがわかってきております。
人間は、無意識のうちに様々な人間中心主義をもっています。神は自分の姿に似せて人を作った、地球は宇宙の中心である、等々。人間だけが心を持っている、というのも、人間中心主義ではないでしょうか。確かに、高度な知性は、大きい脳を持つ人間だけのものですが、それと、心を結び付けると、人間だけが心を持つということになってしまいます。アンデルセンの人魚姫では、人魚は人間と違い、心を持たないことになっていますが、これも、キリスト教の影響なのでしょう。
2019年9月3日火曜日
脳と心の関係
心が何なというのか、自然科学ではまだわかっていません、すると、心の終焉であるかもしれない死も又、それが何なのか分からない、というのは、当然のことでしょう。自然科学や近代的思考を尊重するひとでも、肉体の消滅とともに、心も消滅する、と割り切ることができない人は沢山いるかもしれません。自然科学が、心の研究について、ほとんど無力なのは、「観測できないものは、科学の対象になりえない」という、それ自体は正しい、経験則、哲学があるからです。
私は、科学のこうした限界を超える試みとして、情報とは何か、を長い間、考えてきました。情報もまた、観測できない、不可思議なものです。それが何かわかれば、心についても、何かわかるだろうと考えてきました。⇒生物と情報
情報と生物に基づいた、心に関する私の見解は、次の通りです。
脳を持たない、ミミズや単細胞生物でも、情報を獲得できる。それは意味的外界を持つということであり、こうした下等な生物でも、主体的行動が可能であり、その限りで、原初的心を持つ。従って、心は、脳の専売特許ではない。多細胞生物の中心である脳は、体細胞集団の司令塔ではなく、逆に体細胞集団の僕(しもべ)である。
私は、科学のこうした限界を超える試みとして、情報とは何か、を長い間、考えてきました。情報もまた、観測できない、不可思議なものです。それが何かわかれば、心についても、何かわかるだろうと考えてきました。⇒生物と情報
情報と生物に基づいた、心に関する私の見解は、次の通りです。
脳を持たない、ミミズや単細胞生物でも、情報を獲得できる。それは意味的外界を持つということであり、こうした下等な生物でも、主体的行動が可能であり、その限りで、原初的心を持つ。従って、心は、脳の専売特許ではない。多細胞生物の中心である脳は、体細胞集団の司令塔ではなく、逆に体細胞集団の僕(しもべ)である。
2019年9月2日月曜日
心と自然科学
前の回で、「心」は、考古学や人類学のおかげで、実証科学として、解明されつつあると述べましたが、それだけでは、不十分です。私は、心は、終局的には、物質科学つまり、分子生物学によって、説明できるはずだと考えています。現在、脳科学のおかげで、その方面の研究も進んでいます。しかし、例えば、茂木健一郎によると、物質としての脳と、心(クオリア)の間にはとてつもなく深い溝があり、そのため、心の解明のめどはたっていないようです。
この問題が解明されない限り、心は謎であり、すると、どこかで、魂の不滅論も否定できず、なかなか死を、受け入れることができない心理状態になり、それが死を不条理と感じる一因になっているのではないでしょうか。
この問題が解明されない限り、心は謎であり、すると、どこかで、魂の不滅論も否定できず、なかなか死を、受け入れることができない心理状態になり、それが死を不条理と感じる一因になっているのではないでしょうか。
2019年9月1日日曜日
死という不条理
個々人は寿命がありますが、人類は、文字や記憶により、永続的な「歴史」という、不死の寿命を持ちます。そして、個々人は、学習により、その歴史を学び、各人の心には、外界としての、永続的な「世界」及びその一部としての自己意識を持つことになります。
自分は、世界の一部でありながら、世界は永続する、一方自分は、寿命があり消滅する、これは不条理ではないでしょうか。死を素直に受け入れることができない、その根底には、この不条理感があるのではないでしょうか。
この不条理を受け入れるためには、次のように考えて諦めるしかありません。そもそも生物としてのヒトが、人間になることができたのは、「心」を獲得したからであり、死の不条理感はその代償なのです。
人間に特有の死への恐れ、それは、生命活動に不要な欠陥であるといいましたが、それは、人間になった代償として諦めるしかないのでしょうか。もぅすこし考えたいと思います。
自分は、世界の一部でありながら、世界は永続する、一方自分は、寿命があり消滅する、これは不条理ではないでしょうか。死を素直に受け入れることができない、その根底には、この不条理感があるのではないでしょうか。
この不条理を受け入れるためには、次のように考えて諦めるしかありません。そもそも生物としてのヒトが、人間になることができたのは、「心」を獲得したからであり、死の不条理感はその代償なのです。
人間に特有の死への恐れ、それは、生命活動に不要な欠陥であるといいましたが、それは、人間になった代償として諦めるしかないのでしょうか。もぅすこし考えたいと思います。
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