2019年9月16日月曜日

疑似生命体その2

社会が、疑似生命体である根拠は、もう一つあります。それは、人類学の成果により、ヒトという生物が、徐々に進化して人間になったことは、確かであることが、分かってきました。ここで、ヒトと人間の間の明確な境界はありません。

そのことは、生物としてのヒトと、人間結合体である社会が、連続的につながっているということを意味します。だから社会という場合、生物的要素は、社会の中に包摂されてきました。その後、人間の進化は止まっても、社会は進化し続けてきました。しかし、人間は、生物的要素から免れることはできません。だから、社会もまた、どこまでいっても、生物的要素は、消えることはないと思います。

2019年9月15日日曜日

社会という疑似生物体

社会を生物に例える考えは、ことさら目新しいものではありません。それらは、社会有機体説として、古くは、プラトンからヘーゲルなど、あるいは、ファシズムの全体主義も、類似の考えにたっています。それらと、私の社会生物学の違いを明確に、しておきます。

社会有機体説において、生物はあくまでも比喩にすぎません。私の場合は、そうではありません。

生物であるヒトは、人間になる過程で、生物的要素を、別の社会的要素で置き換えることで、人間という生物の否定形を獲得してきました。それは、社会的結合です。だから社会的結合には、生物的要素が潜んでいるはずです。社会とは、人間という半生物の存在形態であり、社会は、その意味で、半分生物なのです。社会は疑似生物体なのです。そうした社会を、生物学的に考察するのが、社会生物学です。

2019年9月12日木曜日

社会の法則

社会は、自己同一性と歴史を持っているということは、社会は、動物など生命体と同じく、日々、外界から、物質を取り入れ(食べ物をたべ)、エネルギーをつくり、活動し、排泄する、ことを意味します。それを社会的新陳代謝と呼ぶことにします。社会は、日々自分を再生産しています。

個々人は、一定の社会のルールのもとで、行動しますが、全体としては調和がとれて、社会という生命体の自己再生産がなされます。すると、一定の社会ルールとは、社会の自己再生産という至上命令から、生まれるものではないでしょうか。それは、丁度、野生の熊の行動が、自己保存を至上命令として、実践されているのと同じでしょう。

社会の自己再生産とは、社会の構成員が、日々食うに困らないように、働き、収穫し、食べることを意味します。それは、個々バラバラであっては不可能です。緊密な協調が必要でしょう。そのためには、様々なルールが必要になります。すべての社会ルールや規則は、この至上命令から生まれる、といえます。

このルールは、個々人の生命維持に関わることですから、非常に厳しいルールにならざるを得ません。それは、誰かが決めるものではなく、外的強制とみなすべきでしょう。すると、それは、ルールと呼ぶより、法則ではないでしょうか。つまり、自然界に自然法則が存在するように、社会には社会法則が存在するのです。

2019年9月11日水曜日

歴史とは何か

どのような未開の集団でも、口伝により、年よりが、若者に、しきたりや、儀式の仕方であるとか、過去の伝承とか、病や災害の教訓とか、様々なことを、代々伝えるでしょう。それによって、社会の規則や風習は、受け継がれ発展します。

ここには、日々の生活(自己同一性)、およびそれの繰り返しによる、緩慢な発展(歴史)があります。人間の集合体が、個々の人間を超越した、連続性を持ち、歴史を持つ、それは、生命体と大変似ています。

この自己同一性と歴史の実体は、我々が社会と呼んでいる人間の結合体ではないでしょうか。そして、私が、社会は、疑似生命体であるというとき、その根拠は、社会が、この自己同一性と歴史をもっていることです。

2019年9月10日火曜日

社会は生命体と似ている

ヒトが人間になる過程は、社会が形成される過程でもあるでしょう。しかし、人間が、最低限の社会を形成したあとも、社会は、発展し続けるわけですから、私が社会とは何かという場合、どの社会を指しているのかを、明らかにする必要があるでしょう。

それは、日々漂白を続ける狩猟採集の小集団なのでしょうか。といったところで、こうした先史時代については、まだわからないことだらけのようです。又、そうした知識をもっていない私が行おうとしているのは、架空の思考実験で、社会と人間の形成について考えることです。話を単純にするため、私が考えるのは、人類形成初期の社会であることは、確かです。

まず、私が、社会実在の為の必要条件として、何らかの強制力の存在を上げたいと思います。例えば、未開社会には、掟とかタブーなどの強制力があることが、文化人類学の研究であわかっています。それを破ることは、追放、時には死を意味しますから、個人は従わざるを得ないでしょう。それは、社会が存在する証拠といえます。

こうした社会の規則により、個人の行動を縛ることで、社会は、個人より全体のまとまりを優先しますが、その時、社会は、生命体と似ています。かつて、社会有機体説というのがありましたが、私は、今から、社会を疑似生命体とみなすことが可能かどうか、可能なら、どのような根拠で、そういえるのか、を考えたいと思います。

2019年9月9日月曜日

生物社会学の試み

人間の集団からなる社会とは、何でしょう。それは、肉体という目に見える生物的要素と、言語や思考や規則など目に見えない経済文化的要素から成り立つと仮定します。

社会=生物的要素+α(目に見えない要素)

似たような構図があります。それは、生物は、物質でありながら、それ以上です。つまり、
生物=物質+β 

生物を考察するために、物質の科学、物理学を取り入れたものが、分子生物学ですが、それは、生物学と物理学の両方にまたがる物理生物学です。

同じように、社会を考察するため、生物学を取り入れた、生物社会学というものは可能でしょうか。それは、生物学と社会学の両方にまたがる学問です。

分子生物学とは、生物を物理の手法で考察する学問といえます。その意味で、分子生物学は、生物物理学です。この手法のおかげで、生物学は、物理学という、より法則的、より実験可能な、科学の力を取り入れることができ、成功しました。

この手法を、私は社会に適用してみようと思います。つまり、「社会」とは何かを、生物学の手法で考察しようと思います。このことにより、生物学という、自然科学の客観性、法則性を、取り入れることで、社会をより客観的、法則的に考察できるかもしれません。

生物集団を研究する社会生物学という学問は存在するようですが、私が、いま試みようとしているのは、それとは発想が別なので、名前も、生物社会学としました。これから、どれほどの長さになるか、分かりませんが、生物社会学の可能性を考えたいと思います。それは、社会とは何か、ということは、人間とは何か、という問題でもあります。


2019年9月8日日曜日

死の考察、最終回

以上、私は、人間の死について、3つの視点から、述べてきました。それは、1.死に伴う疎外感 2.死の不条理感 3.死の悲しみ

1と2は、何とか、解決改善の余地があり、3の死の悲しみは、受け入れるしかない、
これが結論です。

人間は、なぜ他の動物のように、従容と死をうけいれることができないのか、うろたえないで、死をむかえることはできないのか、この重大な問いに万分の1も答えられたとは思えません。

しかし、3について、私たちは、生のすばらしさ、ありがたさを、忘れることなく、いきてゆくしかありません。

これで、死についての、私の考察を終わります。次からは、別のテーマに取り掛かります。お読みいただいた皆様ありがとうございました。

2019年9月7日土曜日

死は生のリマインダー

生物としてのヒトは、長い進化の過程で、他者と通じ合う心を獲得し、その人間らしい心を豊かに発展させてきました。人間は、社会的動物です。言語、思考、文化など、深く心的結合をしているという点で、他の生物とは根本的に異なります。

死は、こうした結合の断裂をもたらします。断裂が苦痛なのは、結合があるからです。その意味で、死の悲しみは、ヒトが人間になったことの、必然的結果であり、代償といえます。それを避ける方法はないでしょう。その意味で、私が、冒頭に申し上げた通り、死の悲しみは、生物としての個体保存とは関係がない、なのに、人間に多大な苦悩をもたらすという意味で、本当はない方がいい、欠陥のある感情なのでしょうか。

愛する人を失う悲しみは、愛する喜びと裏腹です。自分がこの世とおさらばする悲しみは、人生の素晴らしさと裏腹です。どちらか一方だけを切り離すことはできません。セットなのです。それは、次の例えからも明らかだと思います。

仮に医薬の発達により、悲しみを忘れさせる妙薬が発明されたとします。人は、最愛の人を失った時、その悲しみを忘れるために、その薬を飲むでしょうか。もし、その薬が悲しみから解放されたとすると、その時、その人は、最愛の人に対する愛をも忘れたことになるのではないでしょうか。だから、そんな薬は飲まないでしょう。

死の悲しみは、人生の素晴らしさとセットである。

死は、生のすばらしさを思い出させてくれるもの、つまりリマインダー(reminder)なのではないでしょうか。死があるからこそ、生が輝くのではないでしょうか。

2019年9月6日金曜日

死の悲しみ

人間特有の死の恐れについて、色々話してきました。話が多岐にわたっているので、中間的整理をすると、まず、死の疎外感とそれに対置する思考として、幸福追求の権利を話しました。次に死の不条理感、これに対置する思考として、魂は、肉体の僕であり、魂は不滅ではない、という考えを話しました。

次に死の悲しみについて、話します。身内や愛する人を失う悲しみは、激しいもので、これも、人間特有でしょう。当事者である本人は、そういった悲しみの中心点に位置するわけですから、大きい悲しみは避けられないでしょう。

前にも話したように、下等動物でも、原初的心を持っているのであり、その意味で、快、不快、や原初的喜びがあるでしょうし、次第に高等になるにつれ、それらは、深くなるでしょう。特に犬や象など群れを成す動物は、豊かな感情を持つでしょう。しかし、人間の感情は、それらとは、比較にならないくらい大きいものです。それは、ヒトが人間になる過程で、他者と通じ合う心を獲得するからです。人間は、肉体こそ別々ですが、心は、つながっているのです。仲がいいとか悪いとかに関係なく、人間は、同一言語、同一思考様式、同一文化、を共有しています。その結合の度合いは、身近な人同士であればあるほど、大きいでしょう。それが、死によって引き裂かれるとき、血こそ流れませんが、目に見えない血が流れるような、苦痛を伴うのは、進化の過程で、人間が、通じ合う心を獲得した、必然の結果でといえます。私たちは、死の悲しみを少しでも減らすためにできることはあるでしょうか。

2019年9月5日木曜日

魂不滅の否定

私たちは、自分の身体を、自分の僕(しもべ)だと思っています。だから、体を酷使する、などと言います。事実、脳の思い通りに体は動きます。自分の生命維持のための活動を、体を用いて行っている、と思っています。しかし、私は、それは逆であり、実際は、脳は身体の僕であると思います。身体に関するこうした考えは、私の情報や生物に関する考えに基づくものです。このことは、すでに述べました。

また、心については、主体性や情報獲得という観点から、脳とは切り離した、身体全体に基礎を置くべきであるという考えも申し上げました。だから、大雑把に命令系統を図式化すると、次のようになります。左が上位で、右が下位です。

肉体⇒心⇒脳(思考)

この図式より、次の重要な結論が生まれます。

肉体の消滅と共に、心は消滅する。(魂の不滅の否定)


2019年9月4日水曜日

脳と心その2

脳という高度に知的な器官を重視するなら、ミミズなどの「下等動物」に、心があるなどというのはナンセンスかもしれません。しかし、進化の過程を見ると、脳は、進化と共に、大きくなり、ヒトでは、特に大きくなりました。体や活動の司令塔として、心は、単細胞から連続的に、発達してきたという連続性を、無視するなら、いつどこで、心が生まれたのか、生物のどの段階以上なら心を持つのか、といった疑問が生まれます。そして、それらの答えはみつかりそうにありません。

逆に、脳は、体の僕(しもべ)にすぎないとすると、すべてうまくゆくのではないか、と思います。最新の様々な知見によっても、細胞や器官は、メッセージ物質を放出して、お互い頻繁に情報のやり取りをしている、それによって、体という複雑なシステムは維持されている、ということがわかってきております。

人間は、無意識のうちに様々な人間中心主義をもっています。神は自分の姿に似せて人を作った、地球は宇宙の中心である、等々。人間だけが心を持っている、というのも、人間中心主義ではないでしょうか。確かに、高度な知性は、大きい脳を持つ人間だけのものですが、それと、心を結び付けると、人間だけが心を持つということになってしまいます。アンデルセンの人魚姫では、人魚は人間と違い、心を持たないことになっていますが、これも、キリスト教の影響なのでしょう。

2019年9月3日火曜日

脳と心の関係

心が何なというのか、自然科学ではまだわかっていません、すると、心の終焉であるかもしれない死も又、それが何なのか分からない、というのは、当然のことでしょう。自然科学や近代的思考を尊重するひとでも、肉体の消滅とともに、心も消滅する、と割り切ることができない人は沢山いるかもしれません。自然科学が、心の研究について、ほとんど無力なのは、「観測できないものは、科学の対象になりえない」という、それ自体は正しい、経験則、哲学があるからです。

私は、科学のこうした限界を超える試みとして、情報とは何か、を長い間、考えてきました。情報もまた、観測できない、不可思議なものです。それが何かわかれば、心についても、何かわかるだろうと考えてきました。⇒生物と情報 
情報と生物に基づいた、心に関する私の見解は、次の通りです。

脳を持たない、ミミズや単細胞生物でも、情報を獲得できる。それは意味的外界を持つということであり、こうした下等な生物でも、主体的行動が可能であり、その限りで、原初的心を持つ。従って、心は、脳の専売特許ではない。多細胞生物の中心である脳は、体細胞集団の司令塔ではなく、逆に体細胞集団の僕(しもべ)である。

2019年9月2日月曜日

心と自然科学

前の回で、「心」は、考古学や人類学のおかげで、実証科学として、解明されつつあると述べましたが、それだけでは、不十分です。私は、心は、終局的には、物質科学つまり、分子生物学によって、説明できるはずだと考えています。現在、脳科学のおかげで、その方面の研究も進んでいます。しかし、例えば、茂木健一郎によると、物質としての脳と、心(クオリア)の間にはとてつもなく深い溝があり、そのため、心の解明のめどはたっていないようです。

この問題が解明されない限り、心は謎であり、すると、どこかで、魂の不滅論も否定できず、なかなか死を、受け入れることができない心理状態になり、それが死を不条理と感じる一因になっているのではないでしょうか。


2019年9月1日日曜日

死という不条理

個々人は寿命がありますが、人類は、文字や記憶により、永続的な「歴史」という、不死の寿命を持ちます。そして、個々人は、学習により、その歴史を学び、各人の心には、外界としての、永続的な「世界」及びその一部としての自己意識を持つことになります。

自分は、世界の一部でありながら、世界は永続する、一方自分は、寿命があり消滅する、これは不条理ではないでしょうか。死を素直に受け入れることができない、その根底には、この不条理感があるのではないでしょうか。

この不条理を受け入れるためには、次のように考えて諦めるしかありません。そもそも生物としてのヒトが、人間になることができたのは、「心」を獲得したからであり、死の不条理感はその代償なのです。

人間に特有の死への恐れ、それは、生命活動に不要な欠陥であるといいましたが、それは、人間になった代償として諦めるしかないのでしょうか。もぅすこし考えたいと思います。