限られた寿命である人間は、いつかは死に、一方では、生まれます。そのようにして、社会は永続します。ちょうど社会を肉体に例えれば、個々人は細胞です。個々の細部は、寿命と共に、老廃物となり、新たな細胞に置き換わるここで、肉体は生きながらえることができます。人間の死は社会的新陳代謝といえます。
社会は、未来志向です。明日や来週、来月、来年を念頭に置きながら、動いてます。しかし、例えばガンにかかり、未来が限られた場合、その人と、社会との接続は著しく狭まります。その時、その人にとって、死という未来が、前面にきます。
社会は、本来的に生者の世界です。それは、死と正反対の世界です。こうした中で、未来の限られたがん患者は、がん死という特殊な生を、物心両面において、まったく個人や身内で対処するしかありません。
死にゆくものの社会的居場所がない、という現状があります。例えば、自分が間もなく死ぬかもしれないとしても、たいていの人はそれを、ごく近しい人をのぞいては、隠してしまいます。社会は死を遠ざけ、医療世界の中に閉じ込め、日常から死を排除します。社会は、日々「生きる」ために必死であり、そこは死とは正反対の世界です。がん患者は、社会的居場所を失い、がん死という個人的生を強いられる、それは、生と正反対であるところの「社会的な死」です。
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