かつて、生物としてのヒトは、共同生活を積み重ねる中で、共感や社会性を徐々に獲得し、言葉を獲得し、人間となりました。言葉の獲得は、思考を格段に豊かにしました。脳科学者は、猿に比べ、ヒトの脳が大きくなった過程と言語形成の過程が一致するといっております。
このようにして、生物としてのヒトは、人間という社会的存在になったのです。そうした過程で、人間は、生物としての死とは別の、新たな死を、社会の中で作り出してきたのではないでしょうか。人間が、他の生物のように、従容として死を受け入れることができない、過剰なまでに、恐怖や不安のもとになる、こうしたことは、人間の社会化に由来するのではないでしょうか。
男、女という性も又、生物的性と人間の性は、同じではありません。フランスの哲学者ボーボアール氏が、「第二の性」という本で「人は女に生まれるのでなく、女になるのだ」といい、「女」という性が、社会的なものであることを暴露しました。今日、生物的性と区別して、社会的・文化的性をジェンダーと呼ぶのは、彼女の洞察が正しかった現れでしょう。
同じように、私は、死にも生物的死とは別に、社会的文化的死があり、私たちが、過剰な恐怖心をもってとらえる死は、この後の方の死ではないか、と考えております。
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