人間は、生物でありながら、「心」をもつという点で、生物を超えた存在です。心は、かつては、哲学や心理学の研究対象でしたが、現在劇的進展が開かれつつあります。それは、考古学や人類学の研究対象となっています。猿人からホモサピエンスまでの進化を追求することで、人間は心をどのようにして獲得してきたのかが、かなりわかってきております。心が、物的証拠をもとにした実証科学として、ようやく科学研究の対象になっているのです。
赤ん坊は、母親の顔をじっと見ます。こうした行為を通じて、母親から「心」は、次第に伝えられ、心を通じ合うことを学び、音声による対話を学びます。だから物心ついた時、すでに、生物ではなく、社会的存在であり、それが人間なのです。
人間は、心を持つことで、豊かな感情を持ちます。他の動物にはない、激しい怒りや、悲しみ、喜びなどです。そして、人間特有の死にたいする感情を持ちます。
2019年8月31日土曜日
2019年8月30日金曜日
人間固有の死のおそれ
社会が、ガンやALSの患者を受け入れる余力を失うとき、死は外在化され、疎外された死が生まれます。令和維新の会の方が、参院選に立候補したのは、個人の努力ではどうしようもない幸福追求の権利を訴えたかったからではないでしょうか。そして当選したのは、多くの人がそれに賛同したからではないでしょうか。
議院活動によって、この方の幸福がすぐ実現できるわけではありません。しかし、幸福追求という同じ地平に立つことで、ALS患者と健常者は対等な関係となり、両者の間にあるバリアーは消滅します。それこそが重要なのではないでしょうか。
以上、疎外された死に対する考えを述べました。しかし、人間が抱く死の恐れや不条理は、そうした社会的問題で、すべて尽きるわけではありません。死を内在化できていた大家族制の時代でも、人間は、動物と違い、過剰に死を恐れ悲しんだことでしょう。それは、他の生物にはない、ホモサピエンス特有の死へのおそれかもしれません。それは、一体どこからやってくるのでしょう。
議院活動によって、この方の幸福がすぐ実現できるわけではありません。しかし、幸福追求という同じ地平に立つことで、ALS患者と健常者は対等な関係となり、両者の間にあるバリアーは消滅します。それこそが重要なのではないでしょうか。
以上、疎外された死に対する考えを述べました。しかし、人間が抱く死の恐れや不条理は、そうした社会的問題で、すべて尽きるわけではありません。死を内在化できていた大家族制の時代でも、人間は、動物と違い、過剰に死を恐れ悲しんだことでしょう。それは、他の生物にはない、ホモサピエンス特有の死へのおそれかもしれません。それは、一体どこからやってくるのでしょう。
2019年8月28日水曜日
死と疎外
現在、社会は、死を、内在的なものとして、受け入れず、外在化する傾向があるといいました。勝手な独断を更に言わせてもらうと、例えば江戸時代には、死は内在化されていたように思います。どういう意味でしょう。
例えば、江戸時代でも、沢山の「不治の病」がありました。寝たきりの病人もいたでしょう。医療も未発達だったでしょう。しかし、現在と大きく異なる点があります。それは、江戸時代は、多くが、家族農業など、家族営業であり、賃金労働者ではありません。又祖父母、多くの子供等、大家族でした。近くには、親族もいます。そうした中では、寝たきりの病人の世話をする場合、個々人の負担は、その分軽減するでしょう。病人は、そうした家族に囲まれて生活することで、病苦の中にも、自分の「生活」を持続し、それなりに幸福追求の余地があったのではないでしょうか。社会が、死を内在化するという意味は、社会が死を受け入れる余力を持つ、そういう意味です。死は日常と共存することで、死にゆく者と生者の間に、心のバリアーはなくなるでしょう。そして、死にゆく人の疎外感は、著しく改善するのではないでしょうか。
例えば、江戸時代でも、沢山の「不治の病」がありました。寝たきりの病人もいたでしょう。医療も未発達だったでしょう。しかし、現在と大きく異なる点があります。それは、江戸時代は、多くが、家族農業など、家族営業であり、賃金労働者ではありません。又祖父母、多くの子供等、大家族でした。近くには、親族もいます。そうした中では、寝たきりの病人の世話をする場合、個々人の負担は、その分軽減するでしょう。病人は、そうした家族に囲まれて生活することで、病苦の中にも、自分の「生活」を持続し、それなりに幸福追求の余地があったのではないでしょうか。社会が、死を内在化するという意味は、社会が死を受け入れる余力を持つ、そういう意味です。死は日常と共存することで、死にゆく者と生者の間に、心のバリアーはなくなるでしょう。そして、死にゆく人の疎外感は、著しく改善するのではないでしょうか。
2019年8月27日火曜日
ガン患者の幸福追求権
余命が限られた人の幸福は、通常の人の幸福と同じではありえないでしょう。しかし、幸福の追求は、生きている限り、放棄することはできない、個々人の固有の権利であり、衝動ではないでしょうか。では、ベッドから離れられないガン患者の幸福追求とは何でしょう。それは、色々あるでしょうが、中でも大切なのは、少しでも、快適な医療ではないでしょうか。では、快適な医療とは何でしょうか。
通常、治る場合の医療は、治すことが最優先されますから、医療行為は、医者の主導になります。しかし、治らない医療は、それは医療であると同時に、幸福追求の一手段となります。つまり、患者が主導権を持ち、医療は、それに従う、これが、快適な医療ではないでしょうか。それによって、ガン患者の幸福追求権は、そうとう改善できるのではないでしょうか。
通常、治る場合の医療は、治すことが最優先されますから、医療行為は、医者の主導になります。しかし、治らない医療は、それは医療であると同時に、幸福追求の一手段となります。つまり、患者が主導権を持ち、医療は、それに従う、これが、快適な医療ではないでしょうか。それによって、ガン患者の幸福追求権は、そうとう改善できるのではないでしょうか。
2019年8月26日月曜日
ガンとバリアフリー
現在、様々な形で、バリアフリーの考えが、社会に普及しようとしております。その根本にある考えは、だれしも幸福を追求する権利があるという、憲法にも書かれている基本的人権の思想でしょう。バリアフリーの思想は、幸福追求のために、積極的に、社会が手を差し伸べて、物的諸条件を整えるという考えだと思います。そのことが、私たちの無意識の中にある差別意識をなくし、心のバリアをも、解消してゆくのだと思います。(心理的な面でのバリアフリーは、正しくはaccesibility アクセシビリティというのだそうです)
私は、ガン患者にも、このバリアフリーの考えが適用できないのかを、考えてみようと思います。なぜなら、ガン患者も、当然のことながら、幸福追求の権利があるのであり、社会がそのためになすべきことがあるはずだからです。
私は、ガン患者にも、このバリアフリーの考えが適用できないのかを、考えてみようと思います。なぜなら、ガン患者も、当然のことながら、幸福追求の権利があるのであり、社会がそのためになすべきことがあるはずだからです。
2019年8月25日日曜日
社会的死
限られた寿命である人間は、いつかは死に、一方では、生まれます。そのようにして、社会は永続します。ちょうど社会を肉体に例えれば、個々人は細胞です。個々の細部は、寿命と共に、老廃物となり、新たな細胞に置き換わるここで、肉体は生きながらえることができます。人間の死は社会的新陳代謝といえます。
社会は、未来志向です。明日や来週、来月、来年を念頭に置きながら、動いてます。しかし、例えばガンにかかり、未来が限られた場合、その人と、社会との接続は著しく狭まります。その時、その人にとって、死という未来が、前面にきます。
社会は、本来的に生者の世界です。それは、死と正反対の世界です。こうした中で、未来の限られたがん患者は、がん死という特殊な生を、物心両面において、まったく個人や身内で対処するしかありません。
死にゆくものの社会的居場所がない、という現状があります。例えば、自分が間もなく死ぬかもしれないとしても、たいていの人はそれを、ごく近しい人をのぞいては、隠してしまいます。社会は死を遠ざけ、医療世界の中に閉じ込め、日常から死を排除します。社会は、日々「生きる」ために必死であり、そこは死とは正反対の世界です。がん患者は、社会的居場所を失い、がん死という個人的生を強いられる、それは、生と正反対であるところの「社会的な死」です。
社会は、未来志向です。明日や来週、来月、来年を念頭に置きながら、動いてます。しかし、例えばガンにかかり、未来が限られた場合、その人と、社会との接続は著しく狭まります。その時、その人にとって、死という未来が、前面にきます。
社会は、本来的に生者の世界です。それは、死と正反対の世界です。こうした中で、未来の限られたがん患者は、がん死という特殊な生を、物心両面において、まったく個人や身内で対処するしかありません。
死にゆくものの社会的居場所がない、という現状があります。例えば、自分が間もなく死ぬかもしれないとしても、たいていの人はそれを、ごく近しい人をのぞいては、隠してしまいます。社会は死を遠ざけ、医療世界の中に閉じ込め、日常から死を排除します。社会は、日々「生きる」ために必死であり、そこは死とは正反対の世界です。がん患者は、社会的居場所を失い、がん死という個人的生を強いられる、それは、生と正反対であるところの「社会的な死」です。
2019年8月24日土曜日
生物的死と社会的死
かつて、生物としてのヒトは、共同生活を積み重ねる中で、共感や社会性を徐々に獲得し、言葉を獲得し、人間となりました。言葉の獲得は、思考を格段に豊かにしました。脳科学者は、猿に比べ、ヒトの脳が大きくなった過程と言語形成の過程が一致するといっております。
このようにして、生物としてのヒトは、人間という社会的存在になったのです。そうした過程で、人間は、生物としての死とは別の、新たな死を、社会の中で作り出してきたのではないでしょうか。人間が、他の生物のように、従容として死を受け入れることができない、過剰なまでに、恐怖や不安のもとになる、こうしたことは、人間の社会化に由来するのではないでしょうか。
男、女という性も又、生物的性と人間の性は、同じではありません。フランスの哲学者ボーボアール氏が、「第二の性」という本で「人は女に生まれるのでなく、女になるのだ」といい、「女」という性が、社会的なものであることを暴露しました。今日、生物的性と区別して、社会的・文化的性をジェンダーと呼ぶのは、彼女の洞察が正しかった現れでしょう。
同じように、私は、死にも生物的死とは別に、社会的文化的死があり、私たちが、過剰な恐怖心をもってとらえる死は、この後の方の死ではないか、と考えております。
このようにして、生物としてのヒトは、人間という社会的存在になったのです。そうした過程で、人間は、生物としての死とは別の、新たな死を、社会の中で作り出してきたのではないでしょうか。人間が、他の生物のように、従容として死を受け入れることができない、過剰なまでに、恐怖や不安のもとになる、こうしたことは、人間の社会化に由来するのではないでしょうか。
男、女という性も又、生物的性と人間の性は、同じではありません。フランスの哲学者ボーボアール氏が、「第二の性」という本で「人は女に生まれるのでなく、女になるのだ」といい、「女」という性が、社会的なものであることを暴露しました。今日、生物的性と区別して、社会的・文化的性をジェンダーと呼ぶのは、彼女の洞察が正しかった現れでしょう。
同じように、私は、死にも生物的死とは別に、社会的文化的死があり、私たちが、過剰な恐怖心をもってとらえる死は、この後の方の死ではないか、と考えております。
2019年8月23日金曜日
人間の最大の欠点
死を恐れる気持ちは、個体保存や種の保存という生物生存の根本にかかわる合理的で必要な本能でしょう。しかし、人間のような過剰な死への恐怖は、生存と関係ありません。とすると、人間は、無用な恐怖心を植え付けられているだけ、損をしていることになります。
動物は、人間のように、死を恐れるでしょうか。どうも、そうは思えません。死を従容と受け入れるように見えてしまいます。本当の所はわかりませんが、どう考えても、人間ほど、恐れているようにはみえません。
過剰なまでの死の恐怖、これは、人間の最大の欠点ではないでしょうか。このような切り口から、死の問題を数回にわたり、考えてみたいと思います。
よろしければ、ホームページ 生物と情報 もご覧下さい。
動物は、人間のように、死を恐れるでしょうか。どうも、そうは思えません。死を従容と受け入れるように見えてしまいます。本当の所はわかりませんが、どう考えても、人間ほど、恐れているようにはみえません。
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